Masuk「あの、人違いじゃないですか?」
あえて鈴代、上城に告げる。自分は眠り姫でもなんでもないと。
「つまり、近寄るなってことかい」
「裏面メッセージ上ではそうなりますね」少年の名前は、上城というらしい。飄々としていて、掴み所のない、風に揺れる麦穂のような性格だ、と鈴代は感じる。だけど、侮れない。
逃げるように立ち上がり、教室を出て行く鈴代を、上城は追いかけようとして、やめる。「振られたかぁ?」
今まで黙って観察していたであろう品川が、あえて茶化すような声で上城に尋ねる。
「まだわからん」
上城も、微笑を返す。
……ようやく逢えた。今日の収穫は、それだけで充分。だから、品川がぼそりと呟いた言葉の意味を、深く考えることはなかった。「あんまり深追いするなよ」
その意味をまだ、彼は知らなかったから。
* * * 上城と鈴代が顔を合わせるようになって、数日。 相変わらず上城は鈴代を口説こうと手を焼いているが、鈴代はどこ吹く風。クラスメートたちは二人を遠くで見守っている……というより、あまり関わりたくなさそうだ。「つれないなぁ」
「つれなくて結構。近寄るなってあれだけ言ってるのに」 「しょうがねぇだろ、俺の前の座席が君の席なんだから」上城が来てから、鈴代の平穏な日常はガラガラと音を立てて崩れているようだ。常に溜め息をつき、彼からのアプローチに辟易している姿は、今までの鈴代を見ていたクラスメートたちからすれば、新鮮だ。
人形のような冷めた美貌を持つ少女は、感情を外に出すことで、人間らしさを認められていく。それもこれも、彼女の後ろにいる上城の所為だ。自分は眠り姫じゃないし、彼方と会った記憶もないと言い張る鈴代に対して、上城はさらりと言いのける。「それでも君は眠り姫さ。隠し事をしたまま一人、昏々と森で眠りつづける悲劇のヒロイン。あのときのことも、記憶を手放して、なかったことにしようと考えている。そうだろ?」
ビクリ。鈴代の華奢な両肩が震える。何も知らない彼が、どうして鈴代をそこまで理解しているのか、賢い彼女でさえ、今は混乱している。だから、つっけんどんに言い返すことしかできない。現に鈴代は彼に隠し事をしているのだから……上城だけが知らない周知の事実を。
放課後。気づくと教室にいるのは上城と鈴代、二人だけ。まるで、そうなるのを待っていたかのように、上城は口を開く。「そろそろ観念したらどうだい? お姫様」
「……やかましい」 「じゃあ、質問を変えよう」上城は机の上で頬杖をつく鈴代の耳元で、こっそり囁く。それは甘い誘惑の言葉でもなんでもない、彼自身の素朴な、素朴すぎる疑問。
「君がクラスメートに恐れられている理由は、単に頭がよすぎるからなだけじゃないだろ?」
見抜かれていた。もしくは、鈴代が学校に来る以前から、彼は推測していたのかもしれない。鈴代が、とある理由で、学内の生徒たちに恐れられている、ということを。
「頭がよすぎるわけじゃない。イカレてるの」
せめてもの強がり。せめてもの反抗。だけど、ロシアから来た彼には通用しない。
「図星、か」
声のトーンが低くなる。上城はどこまで知っているのだろうか? それともただ単にカマをかけているだけなのか。鈴代は上城の耳元に唇寄せて、耳たぶを思いっきり噛む。
「どこまで知ってるの?」
「って……知らないから聞いてるんだけど?」 「たとえ彼方が事実を知らないとしても、憶測だけでわたしをここまで追い詰めたのは事実よ。なんか悔しいんだけど」 「俺は悔しくない。それより君が正直に教えてくれないことが悔しい」そして、耳たぶの仕返しに、と、鈴代の鼻の頭にチュっとキスをする。カァっと赤く染まる鈴代の顔を満足そうに見つめる上城。
「もっとディープなのがよかった?」
「……ばかっ」俯いてしまった鈴代の頭をぽんぽん、と撫でて、上城は小声で囁く。
「ダ・ザーフトラ」
そして、何事もなかったかのように、そそくさと教室を出て行く上城。呆然と、彼の小さくなっていく背中を見送る鈴代。
「……またあした、かぁ」
両腕で頬杖をついたまま、溜め息をつく鈴代。あの夏以来、自分は彼に恋をしているのだろう。本当なら彼ともっと会話したいし、触れられたい。あわよくばキスだってしたい。あの夏に訪れた一瞬の熱を再び感じたい。
だけど。彼は知らない。知ったらどう思うだろう。クラスメートたちみたいに、わたしを恐れて、たわいもない会話しか交わさなくなるのだろうか。そうだとしたら、嫌だ。 だから鈴代は自分から口にしない。上城が失望した顔を、その場で見たくないから。 鈴代は鼻の頭に触れて確かめる。彼に触れられて発した熱の余韻を。それだけで充分。もうこれ以上望んだら、後戻り、できない気がするから。「あの、人違いじゃないですか?」 あえて鈴代、上城に告げる。自分は眠り姫でもなんでもないと。「つまり、近寄るなってことかい」 「裏面メッセージ上ではそうなりますね」 少年の名前は、上城というらしい。飄々としていて、掴み所のない、風に揺れる麦穂のような性格だ、と鈴代は感じる。だけど、侮れない。 逃げるように立ち上がり、教室を出て行く鈴代を、上城は追いかけようとして、やめる。「振られたかぁ?」 今まで黙って観察していたであろう品川が、あえて茶化すような声で上城に尋ねる。「まだわからん」 上城も、微笑を返す。 ……ようやく逢えた。今日の収穫は、それだけで充分。だから、品川がぼそりと呟いた言葉の意味を、深く考えることはなかった。「あんまり深追いするなよ」 その意味をまだ、彼は知らなかったから。 * * * 上城と鈴代が顔を合わせるようになって、数日。 相変わらず上城は鈴代を口説こうと手を焼いているが、鈴代はどこ吹く風。クラスメートたちは二人を遠くで見守っている……というより、あまり関わりたくなさそうだ。「つれないなぁ」 「つれなくて結構。近寄るなってあれだけ言ってるのに」 「しょうがねぇだろ、俺の前の座席が君の席なんだから」 上城が来てから、鈴代の平穏な日常はガラガラと音を立てて崩れているようだ。常に溜め息をつき、彼からのアプローチに辟易している姿は、今までの鈴代を見ていたクラスメートたちからすれば、新鮮だ。 人形のような冷めた美貌を持つ少女は、感情を外に出すことで、人間らしさを認められていく。それもこれも、彼女の後ろにいる上城の所為だ。自分は眠り姫じゃないし、彼方と会った記憶もないと言い張る鈴代に対して、上城はさらりと言いのける。「それでも君は眠り姫さ。隠し事をしたまま一人、昏々と森で眠りつづける悲劇のヒロイン。あのときのことも、記憶を手放して、なかったことにしようと考えている。そうだろ?」 ビクリ
上城が座る席の前に、その席はある。ロシアからの帰国子女が編入して二週間、ようやくクラスは平穏さを取り戻し、上城自身も周囲の人間と仲良くなってきたが、彼には未だにわからないことが幾つか存在していた……その一つが、窓側の空席のこと。 品川が編入初日に言っていた、該当者であろう女の子の席、なんだろうか? 不思議に思った上城が、クラスメートに尋ねると、困ったような表情で、あっさり受け流される。「ああ、そこはスズシロさんの席だから」 スズシロさん、という固有名詞を上城は何度聞いたことか。それ以上詳しく聞こうとしても、彼らは何かを怖がっているみたいで、よくわからないと逃げてしまう。 担任に尋ねると、スズシロさんは虚弱体質の持ち主で、夏休みの間に入院して、二学期から戻ってくるはずだったのだが、長引いてしまい、退院するのが遅れているのだ、とのこと。「品川。スズシロさんってどんな子?」 「どんなって聞かれても……正真正銘の美少女だけど、怖いくらい頭がよすぎて、ちょっとついていけないとこがあるなぁ」 聡明そうな少女だった。ロシア語で器用に「騎士は淑女の前に跪き謝意を表するのが慣わしでしょ?」と歌うように口ずさんだ彼女のことを思い出し、上城は苦笑する。まあ、あれは彼が若気の至りで少女にキスをしてしまったから言われたのだろうが。 思い出し笑いをしている上城を不気味そうに見て、品川は呆れる。「そんなに気になるか? 彼女のこと」 「気になるね。俺に挑戦してきたんだから」 「……人違いだったらどうするんだよ。知らねぇぞ」 だが、品川の心配は無用だった。 なぜなら、上城春咲が運命の人だと決めつけた少女が、鈴代泉観、本人だったから。 * * * 十月。 学園内の金木犀が橙色の花をつけはじめる。校内だけでなく、周辺にまで甘い香りが漂う。裏門から入った鈴代は、鼻孔をくすぐる甘い芳香に惑わされることなく、一目散に向かうのは自分の教室。 結局、三ヶ月かかってしまった。消毒薬の匂いが充満していた病院で怠惰な日々を過ごしていた彼女は、感傷を隠すように、校内へずかずか入っていく。そのまま、久々の教室の扉を開けて、いつもの席に腰をおろす。 ふわり。風もないのに黒髪がたなびく。ほんのり、金木犀の甘い香りがまとわりつく。だけど鈴代は金木犀の
恋に堕ちるのに、理由なんかいらない。たとえそれが、呪われた少女だとしても。 * * * 長いといわれていた夏休みが呆気なく終わった次の日の朝。 私立クレーマ学園高等部一年C組に、噂の編入生がやってきた。なぜ、噂になっているかというと、中高一貫教育をしている私立学校に中途半端な時期にやってくる編入生なんて、それなりにワケアリな人間でしかないと、生徒たちは思っていたから。 メイプルシロップのような榛色の双眸を持つロシアからの帰国子女は、新しい級友たちの好奇心旺盛な視線を怯えることなく受け止め、何食わぬ顔で応戦している。担任教師でさえ読み間違えそうな、黒板に漢字で記された名前を彼は読み上げる。慣れきった表情で、平然と。「カミジョウスザクっす」 栗色の髪の毛と榛色の瞳、外人のようにすらりとした鼻梁を持つ背の高い少年は、自分を珍種の動物のように見つめる視線を前に、緊張も見せずに紹介を始める。「ロシアの日本人学校にいました。だから日本語問題ないです。生まれた頃から向こうにいました。まぁ親父の仕事の都合でこっち戻ってきたんですけど。いやぁ日本あったかいですねー」 人懐っこい笑顔が効をなしたのか、級友たちがまばらながらも反応を示し始める。くすりと笑う少女、ロシア? と疑問符を浮かべた表情の少年、エトセトラエトセトラ。「こう見えても俺クォーターなんですよ。死んだばあちゃんがロシア人で。だから少しだけ鼻が高かったり眼の色が薄かったりします、先に質問されそうだったから言っておきますね」 そして、一通りの説明が終わって、質問タイム。こういうとき、男子よりも女子の方が権力を持っているらしく、手を上げるのは女の子ばかり。それは、上城が単に非日常的な存在だからか、人並み以上の魅力を持っているからか、変な名前だからか、結局のところよくわからない。まぁ要するに転校生というのは男子以上に女子にとってみれば大きなイベントなのである。 上城は一つ一つにこやかに応えていく。趣味はピアノを弾くことでドビュッシーが大好きだ、とか、日本の食べ物で一番好きなのはなめこ汁だとか、春咲という名前の由来は春に生まれたからだ、とか、ロシア語はそれなりに話せるとか、当り障りのない質問を。 だが、一つだけ彼を困らせる質問があった。「上城くんはぁ、彼女って
濃いグリーンのブレザーを身に纏った少年は、死体を見つけたのかと思った。 * * * 伽羅色の煉瓦が敷き詰められた学園の裏庭を慣れない革靴で、コツコツ、地面を鳴らしながら、歩く。 七月、期末試験を終えたからか、周囲はがらんと静まりかえっている。そういえば、終業式は一週間後だったかなぁと、他人事のように首を傾げ、事務室をあとにして…… 迷った。 きょろきょろ、周囲を見まわす。駅に向かう西門を探していたのに、少年が発見したのは。 うっそうと繁ったヒースの森の中、羽毛のような手入れの行き届いた黄緑の芝生の上で横たわっている少女。 黒いセーラー服、雪のように仄白い透き通った肌、無造作にのばしっぱなしの黒髪。顔色が蒼白いからか、死体のようにも見える。が。 耳をそばだてると、すぅすぅ、小さな寝息が聞こえる。どうやら眠っているらしい。 少女のあどけない寝顔に、なぜか、惹かれる。 かわいい、美しいという言葉よりも先に、綺麗、という言葉が出てくる。例えるなら、天使というには美しすぎて、女神というには幼すぎる。要するに、人並みはずれた顔立ちをしているのだ、彼の前で無防備に眠っている少女は。 まさに、おとぎ話にでてくるような、眠り姫、だ。 魅入っていた少年を我に却らせたのは、その少女の「うーん」という鈴の鳴るようなか細い声。誰かが近くにいる気配に感づいたのか、少女は、ぱちくり、瞳を見開く。「あ」 二人の視線が、絡まる。同時に、思いがけず口を開く。驚きを露見させて。 どちらからともなく互いの頬に、さっ、と朱が走る。 やがて少女は、じっ、と少年を見つめ、一言、歌うように。「編入生、ね」 まるで、そこに彼が来ることを予知していたかのように、呟く。 瞳を見開いた少女に圧倒されて、少年は無言で肯定する。吸い込まれるような、漆黒の瞳は、まるで新月の夜空のよう。 そして、澄んだ空に溶け込むような落ち着いた声色に。起き上がり、俯く仕草に。引き寄せられる。無言でいる少年に対して、少女は再び口を開く。淋しそうに。まるで何かを諦めてしまったかのように。「もう、そんな時期なの……」 哀しそうにひとりごちる少女に、少年はいてもたってもいられなくなる。そのまま、黙り込んだまま、二人は見つめ合う。鼓動が早まる。少女が懇願するような瞳を向ける。 ……どうして、そんな眼